江藤新平の功績  〜新栄さが学講座③〜

新栄公民館

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江藤新平  〜日本の礎を築く〜 

講師:藤井祐介さん (佐賀城本丸歴史館学芸員)

幕末期、長崎警備を担当していた佐賀藩は諸藩の中でも現実的な考えをもっており、いち早く鉄製大砲や蒸気船を作るなど、外国の脅威に備えていました。

そんな緊張した情勢の中、佐賀藩の下級武士として生まれた江藤新平は弘道館で学びメキメキと頭角を現します。義祭同盟に加わり、枝吉神陽から国学や律令学を教わった江藤は脱藩し京都へ向かいます。そこで木戸孝允や公家姉公路公知と知り合うのですが、上洛諸藩のまとまりと具体性のなさ、尊皇攘夷を主張している志士たちの空論を実感することになります。危機感をもった江藤は、佐賀へ帰藩し、京都見聞を直正に提出しました。その後佐賀藩藩政改革を任された江藤は、参政、佐賀藩権大参事という要職を歴任することになります。

江藤の働きは戊辰戦争でも見られます。諸外国が虎視眈々と日本の植民地化を窺う中、内乱をしていては外国に付け込まれてしまうという危機感をもった佐賀藩は、しばらく様子をうかがっていました。すぐに新政府につかなかったことで、あわや"朝敵"と見なされてしまうところ、江藤は木戸孝允を通して岩倉具視や三条実美に釈明し、佐賀藩存亡の危機を救いました。教科書には載っていませんが、江藤は西郷隆盛らとともに江戸城無血開城にも立ち会っています。旧幕府書類を接収する際、金銭等には目もくれず、町奉行所に踏み込んで、その書類を取り纏めました。他の誰も気づかない行動をとったのは、税の仕組みなど、今後に活かせる資料に目をつけたからでした。このことからも江藤が現実的な視点をもっていたことがわかります。文部大輔として国民皆教育、また初代司法卿として誰でも公正な裁判ができるよう、人権を尊重する近代的裁判制度を導入するなど、日本の礎を築いた江藤。しかし政府の幹部の利権にも踏み込む司法制度は、政府の要人だった大久保利通らの強い反発を招きます。その後征韓論をめぐる明治6年の政変で中央を追われ、佐賀に戻ります。もともとの目的は政府に不満を持っていた士族たちをなだめるためだったのですが、政府の強硬な対応もあり結局は不平士族のリーダーとなり決起することとなります。

内務卿大久保利通が伊藤博文に宛てた手紙には『とかくこの一打をもって叩きつけ申さず候ては』とあり、意味は「一打をもってしっかりと佐賀を抑えなければ、『朝権』、政府の権威というものを示す機会がなくなってしまう」と記されています。このとき江藤は、まだ佐賀に入ってすらいませんでした。ここに、戦いを回避しようとした江藤と、鎮圧に積極的に動いた政府側という構図が浮かび、戦わざるを得なかった江藤の実情が伺えます。1ヶ月ほどで決起軍は鎮圧され、十分な裁判も受けられないまま江藤は処刑されてしまいます。

歴史の教科書では「佐賀の乱」として知られている戦闘ですが、乱という言葉が与えるイメージを払拭するため、「佐賀戦争」と表記することで江藤を復権していくという動きにつながっていくと、藤井学芸員は語っておられます。

今回は佐賀の視点で江藤の功績を検証し、現実的な視点をもって活動した彼の卓越した洞察力と行動力、また戦わざるを得なかった佐賀戦争による悲運をお話していただきました。

七賢人を中心に、佐賀が輩出した偉人たちの功績が脚光をあびていますが、一昨年度の新栄さが学講座で取り上げた佐野常民や今回の江藤新平もそうですが、彼らは金銭や名誉のためではなく、純粋に国民ため国家のためを思い、信念を持って仕事に打ち込みました。その功績もさることながら、私たちが彼らから受け継ぐべきものは、まさにその精神ではないでしょうか。 

  

     藤井祐介さん 

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   表紙写真(江藤新平):佐賀城本丸歴史館蔵