八田江(資料)

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八田江は、地元では、古くから江湖(えご)と、言いならわしていました。江湖は入り江や淀みをもつ、蛇行する河川のことで、遠浅の有明海の水脈(みお)が、干拓の過程でそのまま地上に残されてできたものです。昔は、南里の集落へ向かって大きく蛇行していたため、南里江と呼ばれていた時代もありました。

 農業大学校の外堀や本庄町中島地区には、古い時代の江湖の面影を、今でも、わずかにとどめている場所があります。

 ところで、古くは東へ西へと大きく蛇行しながら流れていた、この八田江は、いったいいつの頃からまっ直ぐに流れるようになったのでしょうか?

 本庄町袋と末次の蛇行部の直線化工事は、18世紀末の江戸時代に行われました。しかし、南里や中島のあたりの直線化は、それよりさらに古く、現在のところ、謎となっています。

 直線化によって、水路は短縮され、耕作面積は拡大しましたが、大きなデメリットがありました。排水機能が低下したため、洪水が頻発するようになったことです。また、川床には年々、有明海の泥土が堆積してゆきました。このような欠陥は、江戸時代にすでに指摘されています。人工と自然との共存は、容易な問題ではないようです。