「隆信公まつり」にて豊漁や海上安全を祈願

南川副公民館

南川副公民館

 5月11日(木)南8区南の燈堂(あかしどう)にある龍造寺隆信公の像の前で「龍造寺隆信公まつり」が行われました。
 まつりは、海童神社の宮司による祝詞や来賓者による玉串奉てんと厳かに執り行われました。
 天文22年(1553)、水ヶ江城奪還を企てていた隆信公がこの地に上陸、川副町の力がその後の活躍に大きくかかわったとの事で深いつながりがあり、今も大事にされています。
 神事の後に、川副先生(武雄市図書館歴史資料館 学芸員)より隆信公の生い立ちや活躍そして川副町との関わり、また龍造寺四天王(成松信勝、江里口信常、百武賢兼、木下昌直、円城寺信胤 四天王だが5人の注釈あり)や成富兵庫助茂安の話がありました。川副の歴史を語るに龍造寺隆信公との関わりは切り離すことはできないと感じた「隆信公まつり」でした。
隆信公まつり.jpg龍造寺隆信とアカシドウ(燈堂)について    (平成21年11月 佐賀市教育委員会)
 戦国時代の勇将、龍造寺隆信(西暦1529~1584年)は、大友宗麟に内通した家臣らに追われて、一時筑後(今の福岡県)柳川に近い一木村(ひとつき)(大川市一木)に身を潜めた。天文22年(1553) 旧暦7月25日ひそかに水ヶ江城奪還を企てた隆信は、鹿江遠江守兼明らの兵船に乗り、鹿江崎、乾堂の澪筋(後の三百間堀)を通って、今の犬井道と戸ヶ里先にあるこのアカシドウに上陸した。当時この辺一帯はまだ芦の生い茂った海岸線であったが、航路の安全を祈る堂があり、灯をつけていたことから、燈堂(アカシドウまたはアカリドウ)と呼ばれたものと思われる。なお、上陸の水先案内役をつとめた土地の漁師2名(犬井道新兵衛、園田二郎兵衛)に対し、隆信はその恩賞として、はじ指網(八尺網、立切網ともいう)の特許を与えている。上陸後、破竹の勢いで周辺の諸将を降した隆信は、遂に5州2島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ九州の雄藩を築き上げた。
 この座像は、昭和28年4月1日の南川副町制施行を記念して、同年10月、地元有志の発起により建立されたものである。その後損傷が激しくなったため、平成10年9月に改築された。