くぼいずみアーカイブ「櫟木(いちのき)の獅子舞」

久保泉公民館

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「くぼいずみアーカイブ」はインターネットだからこそ、後世に残ってほしい事物をとりあげていきます。

今回は、櫟木の獅子舞、をとりあげます。

いずれも佐賀県教育委員会発行の「佐賀県文化財調査報告書第九集(昭和35年3月発行)」と「佐賀県の民謡-佐賀県民謡緊急調査報告書-(昭和63年3月発行)」の記載を参考にしています。現代、適当でない文言も含まれるかもしれませんが、原文をなるべく活用しています。

まず、佐賀市制百周年記念に舞われた「現在最後の貴重な画像」を紹介します。

後述の動画と同時期に舞われたものと思われます。

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櫟木の獅子舞は、金立神社の神輿のお上りお下りに先払いとして五十年に一回の出場をするものである。

文永(鎌倉時代)のころ、櫟木地区の北端の森に荒獅子が住み、森の主として付近を荒らしていた。しかし姿を見たものは、疫病より逃れ、家は栄え安産の利益を得るとし、神獅子と呼んで、この幸に巡り合おうと近在近郊はもちろん、遠方から人々が訪ねてくるようになった。この頃、丹波の国の呉服小間物商人の与作というものが、胆力ありかつ踊りの妙を得た人で、得意の踊り(神楽のこと)で荒獅子を鎮め幸運をつかんだという。そこで櫟木地区の人々は神獅子と与作の姿を伝承しようと獅子舞を始めた。

構成人員役柄は、「獅子使い」として獅子の頭部を操るもの一人。胴体に入るもの十人ほど。交代要員も含め、約30人の青年壮年。ももひき袴に襦袢着用。「獅子つり」は別名を「めづり」あるいは「与作」といって五十歳くらいの老練熟達者か十二、三歳の元気な童児がこれにあたる。交代のものを含めて三人。姿は女の長襦袢にたすき掛け、瓢箪を背負って黒い漆塗りの面(与作の面ともいう)をかぶり、五色の紙をまいた二本の棒で獅子を操る。

獅子はもりやぁしと呼ぶ七歳から十二、三歳の童児15人、筒袖の白衣に紫色の袴、緑の帯を締め、花笠を冠り、小太鼓(元来はこの締め太鼓をもりやぁしという)を胸高に首から五色の布で釣り、両手で打つ。大太鼓二人。ひとりは交代役。御幣を飾った太鼓を笛や歌に合わせて打つ。歌はすべて各役の交代役が歌う。笛は十人。横笛で七節のもの、笛の家としての伝承するものが紋付羽織袴の姿で吹く。獅子の頭部は竹で編み、これにたくさんの神符をはって塗り上げ、頭部首部をおおうたてがみは白紙の御幣を無数に用いたものである。前部には無地の麻布、胴体は赤白の幕布を用い、この中に20人が入る。尾部はない。

文中の「北端の森」、はおそらくここら辺です。※S氏・Y氏談。

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ここは結構雰囲気のいい場所です。一回訪れてください。この千手観音様のような樹も出迎えてくれます。

櫟木の獅子舞が最後に披露された「動画」も下記をポチッとしてください。YouTubeにとびます。

どうぞ。ご覧ください。

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くぼいずみアーカイブ、今後もお楽しみにお待ちください。