≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「高尾お倉跡」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
巨勢川東岸の高尾宿公民館付近は藩政時代(江戸時代)に佐賀藩の上納米収納倉庫があった場所です。この付近は船着き場で、コの字型に倉庫が並び、中庭は米検査場でした。高尾橋のたもとに倉番所が置かれました。明治18年(1885年)頃まで4棟あり、廃藩後不要となり、明治29年(1896年)には土地と倉庫は巨勢村に払い下げられ、役場として使用されました。昭和になり農協倉庫として活用されていました。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
寛政元年の巡見禄によれば、高尾村は石高500石2斗5升、人数550人ほど、家数100軒ほどと書かれている。文化24年の郷村帳によると宿、南小路、北小路、井手小路、竈王院小路などの集落が記されている。また享和年間(180年前)菱屋平七が書いた筑紫紀行には「七、八丁いけば人家100軒あまり、茶屋多し」と書かれている。このように長崎街道と巨勢川の水運との恵まれた位置にあって農協倉庫付近はお倉浜といって佐賀藩の倉庫があって「津出し」「浜出し」といって高尾津より米の積み出しも行われ、牛島には「高尾市場」と呼ばれる農作物の市が江戸末期から明治初期まで開かれ、この地域は物質の集散地として栄えた。昭和初期まで魚屋、八百屋、菓子屋、床屋、製麺屋、荒物屋、仕出屋、酒屋、精米業、飲料店、自転車屋、醤油屋、豆腐屋、畳屋、肉屋、粉引屋その他などが並び賑わっていた。
巨勢川岸の農協倉庫付近は、藩政時代鍋島藩の上納米収納倉庫のあったところで、明治18年頃までは、4棟あったといわれている。廃藩後、この倉庫も不要となり、明治29年地所と新倉庫を巨勢村に払い下げられ役場として使用されていたが、昭和になって農協倉庫となり現在に至っている。この付近はお倉浜と呼ばれ、舟着場で現倉庫の南、東を堀でかこい北と南にも倉庫があって、コの字形に並び中庭は、米検査所で、高尾橋のたもとに倉番所があったと言われている。天明の郷村地図にも記載されている。
≪高尾お倉跡の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑩真崎照郷記念碑(こじんまりコース) →真崎照郷記念碑のページ
≪参考≫