≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「巨勢神社」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
大化元年(645年)の創建で、佐賀市内では大和町の與止日女神社(564年創建)、与賀町の与賀神社(564年創建)に次いで3番目に古い神社です。巨勢大連を祀る神社ですが、巨勢大連は当時、異国から対馬を攻められた時にそれを撃退するために奈良の都から派遣された豪族で、巨勢に陣を構えます。異国を撃退したのちに、この地を開き、現在の水ケ江から兵庫町、蓮池町辺りまで広がる巨勢郷を栄えさせました。そこで巨勢大連を祀るために住民たちがこの地に神社を創建しました。境内には奈良から取り寄せた椿が植えられています。巨勢神社の紋は佐嘉神社と同じ杏葉紋ですが、これは鍋島勝茂が佐賀城の東の守りとして巨勢神社を大切に保護したためといわれています。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
巨勢神社由緒記には「肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は人皇三十七代孝徳天皇の御代、異族壱岐、対馬の二島を犯したので、巨勢大連は征伐の勅を受け下向した。ご退治ののち、西津守護となって、まんまんたる広野を開きここに跡を垂れられたので巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉った」と書かれている。「旧藩主各神社調」によると「鎮西肥前州鎮守宗廟巨勢老松大明神。本地不動明王となり。鎮守の由来は、源頼朝公諸国の地頭職を兼ねたのち、後鳥羽院の御代建久五年武蔵国七党の内、児玉党の宗子で参河内守俊治、筑紫肥陽の地を領して、この地に下向された。(中略)故国の氏神老松大明神を瓦町に勧請して、五百余町の宗廟と仰ぎ、あわせて淀姫大明神、乙宮の二社をあがめ、二社の本地観音菩薩・毘沙門天の二尊像を一堂に安置された。(中略)そののち、花山天皇の御代延慶年中、立川阿波守・同弟伊豆守・嫡男讃岐守・次男若狭守が鎌倉今泉より当国に下向された」と記載されている。
天保十年円満院より実相院への書状の中には、「当社の宗廟というのは、大化元年異国より大軍が押し寄せてきたとき、巨勢大連朝臣という人が、討鎮として勅命をうけこの地に下向して、不日に討鎮され長くこの地に留まり神と跡を垂れられた。ただいま宝殿は朝臣垂跡のところで、白雉年中、巨勢大明神当庄の宗廟と仰ぎ、またこの地を巨勢の里とした。その後、参河内守俊治という人、肥陽の地を領し、この地に下向されてその生国武蔵国の氏神老松大明神と、当国一の宮・淀姫社・乙宮の三社を宗廟巨勢大明神宝殿に勧請して四社の明神と尊崇し千余町の宗廟とされた。」と記されている。また、円満院由来記には、「当庄に宗廟神として祭られたのは、白雉年間よりおよそ540余年後は参河内守俊治という人、肥陽の地を領し、建久五年この地に下向されて牟田という里に居城をお築き住居して故国武蔵の氏神老松大明神を瓦町に宗廟本社に勧請し、並びに淀姫社・天満宮・乙宮の三社を一殿にあがめられた。ゆえに四社の明神という。また故郷巨勢野になぞらえてこの地を始めて巨勢と号す。(中略)俊治の家はおよそ110年を経てその家絶えたので、のち、相州鎌倉今泉より立川阿波守という人、一族四人延慶年中この地に下向されて、舘を築き今泉と号せられ、瓦町の四社は巨勢の宗廟なので、今泉(巨勢川西岸一帯の総称)の中四本松一の角に移された云々」とある。
このように創建の由来や祭神については一定しておらず、変遷をたどっているが参河守の一族、立川氏の与党に尊崇され、巨勢郷唯一の守護神であったことは否定できない事実といえよう。
肥陽古跡記にはつぎのように記されている。「佐嘉郡巨勢郷老松大明神、後鳥羽院勅願にして筑前太宰府天満宮の末社となり。霊験ことあらたにして、大友勢この国に攻め寄せ境原に陣を取って佐賀勢のようすを伺った。このとき鍋島直茂公この神社にご参詣とあって勝利のご祈願をされたが、夜半明神真理に甲冑に帯し多くの眷属を具足し鬨の声をあげて敵兵を追放したちどころに勝利をえられた。これ奇代なりとして、そののち明神を尊敬された」と、また、内庫所記録に、巨勢の庄、老松大明神霊験とくにあらたにして利生日夜盛にして、一度歩を運ぶ人たちはことごとく世の願望を満たすと、...そこで龍造寺、鍋島両家の尊信熱く社殿の造営に送られたもの多く、荘厳な殿堂にして多くの参拝客があったと言う。始めは南面であったが、元和年間造営のとき勝茂の託宣にて現在のようになったという。
巨勢神社の祭神は次のとおりである。
巨勢大連 天照皇大神 大己貴神 老松大明神 伊弉那岐尊 仁徳天皇 淀姫神 菅原道真 倉稲魂命 乙姫神 応仁天皇
また、境内にはつぎの神社がある。
松尾神社 大山昨命 三輪神社 大己貴神 稲荷神社 倉稲神社命
その他の末社のうち巨勢町内をあげると
牛島下 天満天神 八竜宮 高良大菩薩(鬼天神) 若宮大明神
高 尾 金立大権現 天満宮
西 分 老松宮 八幡宮 象王権現
東分上 柳原天満宮 東島天満宮 東島若宮天神 唐竺大明神 仲駄町大明神
平 尾 天満宮
東分下 熊野権現 などである。
巨勢以外の兵庫地区などいれると56社あったが巨勢町内熊野権現以外の大部分のものは明治のころ巨勢神社に合祀されている。 巨勢神社の例祭は4月15日、祈念祭は2月15日、秋祭りは10月20日ある。昭和初期までは春の例祭には境内で小学校の運動会などがあり、夏祭りや秋の供日には夜店が並び舞台には踊りや「にわか」などがあって賑わった。秋祭りは供日といって12月15日であったが11月29日に替わりその後今の10月20日になった。神社の拝殿には珍しい「河うそ」の木像が架かっている。
★ 神社前の夜燈には享保14年高柳氏、狛犬には寛政12年材木町山口源兵衛と、また第一鳥居の側の夜燈には下今宿町大園氏萬延元年と刻まれており、松尾神社の寄付者には兵庫地区の人々の名がかかれ当時の氏子の広がりがわかる。 また、松尾神社との間に寄宮されたもののなかには、天満宮(文政12年)英彦山権現、天照皇大神(享保5年)と記され神社南西の所には青西金剛(寛政13年)や弁才天が祭られている。巨勢神社の神宮寺であった円満院は神社の北にあって後鳥羽院の建久5年阿増法印がこの地に開き福幅寺と号したが、火事で焼けてしまった。のち、後土御門院のとき増範法印と言う人が再興して円満院神幅寺といった。明治7年牛島村と高尾村でこの円満院に牛島小学校を開設した。これが巨勢小学校の始まりである。 現在も円満院のあとに住職の墓がのこっている。
≪「巨勢神社」の動画≫
≪巨勢町内の史跡等マップ≫ ➡ 史跡等データベース トップページ
≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
* ⑪肥筑軌道高尾駅跡(こじんまりコース) →肥筑軌道高尾駅跡のページ
* 最終地点 ㉗佐賀市立巨勢公民館(しっかりコース) →巨勢公民館のページ
≪参考≫