≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「二木大明神」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
牛島上地区と大財6丁目(循誘校区)の境界付近に二木大明神の碑が立っています。巨勢神社の記録によると、鎌倉時代に立川阿波守らの一族が鎌倉から当地に来て(現在の田代公園付近に)館を造り、鎌倉の地名にちなみ今泉村と号した、とされています。神様の御旅所である小二接神(しょうふたつぎのかみ)を勧請し、牛島の三関(現在の構口公民館付近)にあったが、いつの頃か「射撃場北浦に移された」と記されています。いつ頃この場所に移されたのか定かではありませんが、祠には「二木大明神」と刻されており、この地を二木(ふたつぎ)といいます。隣には馬頭観音もあります。民衆の間では使役動物である馬の健康や冥福を祈る対象とされてきました。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
牛島村は構口の東方一帯で、もっともひろびろとした水田地帯であった。牛島の名は地名としても荘園名としても記されている。牛島の荘は、応保2年(1162)太宰府天満宮安楽寺の千部会に平清盛が牛島の荘60石を寄進したと記録されている。その後承安3年(1173)牛島の荘100町が安楽寺の一切経領となっている。正応5年(1292)の「惣田数注文」には安楽寺領内に「牛島野荘60丁」と記され、また太宰府天満宮の史料の注進状には「牛島荘、同片田江村」と今の巨勢、大字牛島から水ヶ江方面にあったと思われる。巨勢荘、牛島荘ともに永く荘園であったと考えられる。江戸時代の地図には今の牛島上、牛島下には人家はなく、大正2年の巨勢村沿革誌によると江戸末期に藩主がこの地に家を建て民を移し民を移し農業の便を計ったが、その時移住して村落を作ったようである。牛島上西の二十三夜尊には嘉永7年、東の大明神石碑には萬延元年と刻字されているのもそれを物語っているだろう。この時移住してきた、もとの場所は西は庄屋小路から、東は宮の馬場(巨勢神社東)とされている。現在も西地区、東地区でそれぞれまつりをして、お互いに客を呼ぶという。二次には馬場観世音と二木大明神の祀がある。
≪二木大明神の動画≫
≪巨勢町内の史跡等マップ≫ ➡ 史跡等データベース トップページ
≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑤構口番所跡(しっかりコース) →構口番所跡のページ
≪参考≫