≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「小田資光の墓」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
応永34年(1427年)小田直光は蓮池の地に下って来て城を築きました。蓮池城(小曲城)は佐賀江などの自然の要害によって難攻不落といわれました。直光の4代孫の資光(覚派)は、龍造寺氏と対立しながら、有力な在地領主として勢力をのばしました。豊後の大友氏の佐賀攻めで、小田氏は大友氏に味方しますが大友氏は敗れて小田氏は龍造寺氏の軍門にくだりました。その後、龍造寺氏の勢福寺城攻めで小田政光(資光の孫)は戦死し、その喪中に龍造寺氏により蓮池城は攻め落とされました。当時、隠居していた資光はその落城を見て憤り自害しました。資光の墓は、蓮池の徳恩寺にありましたが、のちに龍津寺に移されました。墓の前には小田氏の業績を讃えた塔が立っています。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
小田常陸介直光は蓮池に城を築き居を構えた。蓮池(小曲城)は佐賀江などの自然の要崖によって難航不落といわれ勢力を広めていった。直光のあと家光、泰光、貞光、周光とつづき資光は周光の子である。佐賀東部に勢力を広めて行った資光は隠居して覚派といった。小田氏は小弐氏につき龍造寺氏と争った。のち戦国の世とて龍造寺氏とのあいだに曲折があって、龍造寺氏の謀によって小田城は落ち、資光は落城した小田城をみて、悲憤の情を抱きながら天文16年11月6日卒した。そののち、残った小田氏も謀殺されて絶えてしまった。資光の墓は始め蓮池の徳恩寺にあったが、いろいろ奇蹟などがあって龍津寺に移したと伝えられている。墓の前に業績などを刻んだ塔がある。
≪小田資光の墓の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
巨勢公民館⇒法専寺⇒戸次塚⇒大神宮⇒柳原観音⇒巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*㉕八幡宮(たっぷりコース) →八幡宮のページ
≪参考≫