≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「二十三夜尊」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
特定の月齢の日に、地区などの仲間が集って念仏などを唱え,飲食をともにしながら月の出を待つ信仰行事を月待ちと呼んでいます。十五夜とか二十六夜などもありますが、この地区で最も盛んだったのが二十三夜待です。旧暦二十三日の夜に行われる二十三夜待は三夜待ともいわれ、参加する人々を三夜講仲間などと称していました。この地区での二十三夜講は江戸時代頃から盛んになり、多くの講員は男子のみでしたが、女子の二十三夜講も一部あったようです。この夜は当番の家で勢至菩薩などの掛け軸をかけてお参りをし、月の出を待ったそうです。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
東分下の耕地は、近郷きっての土地の高いところで、踏み車で水を汲み上げる当時としては水田の灌水には言語につくせぬ苦労が多かった。平素でも二段、三段の踏み車を連ねなければならず、朝は三時・四時から蚊にくわれながら小学校の子どもまで動員しての車踏みで、この苦労が毎年繰り返された。そのため人手の確保と苦労はたいへんなもので、大正10年東分耕地整理組合を作り、その事業として低利資金の融通と県費の補助で灌漑施設を取り入れることを始めた。佐賀県最初の機械灌漑施設だけに、事業遂行にはいくたの困難がつきまとった。はじめ、5馬力のディゼルエンジンで実施したが、機械不良にて失敗。のち、石油発動機とポンプを舟に積んでクリークを移動した(揚水舟)が機械になれず失敗した。そののちガス発動機による揚水施設を完成し、良好であったので各地から農民の視察があいついだという。こうしてガス発動機を定められた運転手が、4・5日交替で運転するというやりかたで、いつも人がついていなければならなかった。そののち2・3年して、大正12年5月電力揚水に改造され、灌漑施設は大きく発展した。この揚水ポンプは牛島の真崎鉄工所が受け持ちともに協力してこの計画を完成した。こうして電気機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、また県内外にも広がって東分下の機械灌漑は、日本での先駆けになったといえよう。この画期的事業を物語る記念碑が当時のことを刻み込みたっている。碑文はときの県知事の作である。その隣に二十三夜尊がある。
≪二十三夜尊の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑮大神宮(たっぷりコース) →大神宮のページ
*⑲地蔵 (じっくりコース) →地蔵のページ
≪参考≫