≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「戸次塚」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
戦国時代、元亀元年(1570年)4月に、豊後の大友宗麟は佐賀の龍造寺氏を攻めてきました。大友の武将戸次鑑連との巨勢の戦いは、鍋島信昌(後の直茂)らの奮戦で鑑連の軍は敗走しました。同年8月の川上・今山の戦いでは、大友方の総大将大友八郎親秀(親貞)は討ち取られ、龍造寺軍の大勝となりました。今山の大友軍は敗走しましたが、神埼郡の姉・境原の軍勢は退却せず、臼杵式部大輔の軍勢は、巨勢・高尾まで攻めてきました。この戦いも龍造寺軍の勝利になりました。巨勢・高尾の戦いでの戦死者を道崎に葬ったのが戸次塚です。以前、戸次塚は264号線の北側にありましたが、焼原川の河川改修により、南側の現在の場所に移されています。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
国道264号線道崎橋の傍らに、一個の扁平な自然石がある。人呼んで戸次塚(へつぎつか)という。元亀2年(1572)大友宗麟の佐賀城攻めのとき戦死した大友方の武将、戸次式部大輔などの屍を埋葬した塚と言われる。大友方の総大将大友八郎親貞が、数万の大軍を率いて佐賀平野に陣したが、龍造寺方の夜襲に会い、川上の今山に討たれて北山の敵は残らず退散した。しかし東の口、阿弥、境原、茶臼山の敵は退かずにいたが、高尾まで押し寄せていた、戸次式大輔の5000余騎に動揺あるのをきいてこれを追い払わんと、納富但島守を先頭に隆信自身も出馬して、高尾口にて戦った。直茂公と隆造寺上聡介と家晴は、中島より敵の後に回り鉄砲を打ち掛けたので、戸次の陣騒ぎたてて東をさして敗走したという。敵将式部大輔は逃げる部下を下知していたが、納富が与力、辻左馬介に会い討たれて首をとられたという。龍造寺方では、これらの戦死者を集めて葬ったという。それが戸次塚と呼ばれ、今日迄残って入る。土地の古老の話には、この塚より南から鎧、兜が出たと伝えられている。現在この土地は法専寺の管理になっている。
≪戸次塚の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑮大神宮(じっくりコース) →大神宮のページ
*最終地点 ㉗佐賀市立巨勢公民館(たっぷりコース) →巨勢公民館のページ
≪参考≫