≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようにしております。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「真崎照郷記念碑」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
真崎照郷は、江戸時代末期の嘉永4年(1851年)に牛島宿に生まれました。少年の頃、イギリスの発明家ジェームス・ワットに憧れ、機械発明に興味を覚えました。明治7年(1874年)、最初の発明である測量機械は農地測量に大きな利便を与えました。その後、製麵機械の発明を思い立ち、実に10余年の研究の末、明治21年(1888年)に初めて特許を得ました。製麵機械の発明は、麺作りの近代化に大いに貢献しました。さらに電動機、変圧器、電気開閉器、鉱山機械などの製造にも進出し、なかでも電気による機械灌漑は、クリーク地帯の農業に欠かせないものになりました。発明による特許や実用新案は数えきれず、各種の共進会や展覧会でも数々の受賞をし、その功績は高く評価され、大正15年(1926年)に記念碑が建立されました。昭和2年(1927年)、77歳で没しました。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
真崎照郷は機械工業の発明に全身を捧げ優秀な製麺機械を始め十有余の専売特許権を有して日本の工業界に大きな功績をあげた。照郷は嘉永4年牛島宿で生まれ、家は代々酒造業で地方でも有数な素封家として知られていたが、父は照郷が6才の時に亡くなった。その臨終のとき、父は「世を益し、名をあげよ」と戒めたといわれ、父の死後、母は家業の切り盛りを一人でしながら「虎は死して皮をとどむという古語をもって彼を教訓した。少年の頃、蒸気機関車の発明者ジェームス・ワットの話をきいて興奮した。ワットの生命が蒸気機関の上に永久に生き、人類のために多大の貢献をしていると考えた彼は発明家に身を投じ、世のため尽くしたいと決意した、最初の発明は地租改正に必要な測量のため真崎円度と称する測量器を発明した。そのとき、明治7年24才でした。かれは、測量のためたんぼを歩いていた時、麦畑の麦に気をとめた。麦の実は安いが、麦粉から作る素麺は4倍の値になる、これを、熟練者しかできない状態でなく機械素麺にできないかと考えた。明治9年綿繰機械をみて、これを応用して製麺機械を発明しようとして、明治10年1月、工場を設立して研究、試作、失敗と製麺機械の発明のための狂人的な生活が始まった。家業は使用人にまかせ酒造場は失敗した試作品の山と化した。知人、親類は、無謀な計画を止め家業に専念するよう説いたが聞き入れず、ついに家業は衰え発明研究のため先祖代々の資産、田畑も手放し悲惨な境遇におちいった。そして苦労に苦労をかさね第7回目の試作ののち明治16年製麺機械と製麺法の発明が完成して機械素麺の新天地が開拓された。8年間の苦心、努力の結果であった。そこで、特許を願い出たが、まだ法の制定がなく頓挫したものの、明治21年麺類製造機械という名称で最初の特許権を得た。そののち大正10年までに29種類の製麺機械関係の特許を獲得した。さらに博覧会などでの受賞は、64回にもおよんだ。日清戦争後、製麺機械の需要がにわかに高まり、業務を拡張し、職工を増員し、さらに大阪に分工場を設けた。明治36年大阪での内国勧業博覧会で一等賞を得たばかりでなく、明治天皇、皇后陛下が製麺機械を御覧くださるという栄誉を得た。日露戦争後はますます販路も拡大して明治40年藍綬褒章が下賜され、さらに44年肥筑で陸軍大演習が実施されたとき、天皇は彼を久留米に召され、工業功労者として拝謁され、また米田侍従が工場を訪問され、彼および従業員一同にご訓告と励ましをのべられるという栄誉を受けた。真崎鉄工所は製麺機械のほかに、電気を利用する機械が将来性があると察知した彼の計画で、電動機、変圧器、電気開閉機、鉱山機械にも分野を拡げ、その需要に対応して日本電気鉄工株式会社を、今のますだストアー付近に設立、海軍の指定工場となり、大正15年には勅使差遣の栄に浴した。また電力機械かんがいを創案し、農用ポンプの製作普及につとめ佐賀、福岡などのクリーク地帯の農業に、多大の貢献をしたことで有名である。しかし、昭和の始めの経済恐慌で、日本電気は閉鎖され電気開閉機の部門は戸上電気製作所がつづけ、真崎鉄工所は製麺機、ポンプなどの製作をつづけた。
照郷翁は発明事業ばかりでなく、郷土の村治に大きな力をつくした。明治23年から大正11年まで、村会議員、学務委員、村長などをつとめた。大正11年には村より第一回名誉職表彰状を授与され、さらに大正15年大正天皇から発明奨励金が下賜され、帝国発明協会から恩賜記念賞ならびに大賞が下付された。この年12月県知事ほか多数の知人、村民の手で真崎照郷翁記念碑が巨勢神社東の巨勢川のそばに建立された。そして昭和2年3月77才で病没した。真崎鉄工所も昭和40年代まで牛島宿で操業していたが、いまはない。
≪「真崎照郷記念碑の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑥巨勢神社(こじんまりコース) →巨勢神社のページ
≪参考≫