≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「小児天満宮」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
天満宮の祠は、鎌倉時代に立川阿波守が鎌倉からこの地に下向の折に建てられたといわれており、以前は、田代二丁目(循誘校区)の田代公園付近にあったものを移されたものです。この祠ははじめ「小児(おに)天神」と呼ばれていましたが、いかめしく差し障りが多いという事から「小児(しょうに)天神」と改めたといわれています。この天神は麻疹(はしか)、疱瘡(ほうそう)から守るとされ、病気流行の時は参詣者が多かったそうです。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
巨勢村沿革誌によると、花園天皇の御代、延慶年間、立川阿波守、同舎弟伊豆守、嫡男讃岐守、次男若狭守、鎌倉の今泉村より、下向あり、所を選び館、屋敷を築き(今の牛島三本松811番地、小児天満宮の西側)ここを今泉村といって鬼門に天神の社、八竜の宮を建て、讃岐守、大二接の神を建立し(巨勢神社の東方)若狭守、小二接の神を勧請(牛島三関の南方)、今泉村並びに福泉庵を開き菩提所を定める。と記されている。大二接とは昔の旅所である。この地域も江戸時代の地図には芦原以外に人家がなく江戸末期に藩主がこの地に家を建て人々を移し農業の便を計った時に今の田代付近から移住して村落を作ったようである。
牛島の内芦原 牛島540番地で現在のし尿処理場のある所で、藩政時代鍋島城守(白石鍋島家)の領地でその年貢米の倉庫があったところである。ここは、佐賀江と巨勢川の合流する水上交通の要地であった。そこで、ここに佐賀江以東の形勢監視の任をもってここに侍屋敷を構え射場が作られ、有力家臣の年貢米倉庫も並んでいたと言う。
★小児天満宮や芦原にあった若宮天満宮は現在地区の中央で地区の人々に祭られている。
≪小児天満宮の動画≫
≪巨勢町内の史跡等マップ≫ ➡ 史跡等データベース トップページ
≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*最終地点 ㉗佐賀市立巨勢公民館(こじんまりコース) →巨勢公民館のページ
≪参考≫