≪ ようこそ、巨勢町の史跡、神社仏閣へ≫
巨勢まちづくり協議会では、令和3年度、町内の史跡等のうち、説明文が読めない老朽化した案内パネルについては更新するとともに、これまでパネルが設置されていなかった史跡等には新たなパネルを設置し、これらパネルにはQRコードを載せて、この「つながる巨勢」のページをご覧いただけるようになります。また、今回パネルを更新しない史跡等についても、現地だけでなく「つながる巨勢」の中で掲載文章などをご覧いただくことができます。さらに、現地にパネルがなくても巨勢歴史マップ(令和3年発行)に載っている史跡等について、「つながる巨勢」の中で取り上げています。
≪「保食神社」について~「巨勢歴史マップ」(令和3年発行)の説明文≫
「保食」を地元では「ほしょく」と呼んでいますが、一般的には「うけもち」と読みます。保食神(うけもちのかみ)は、「日本書紀」にも登場する神で、食物の神、五穀の神といわれます。神殿の前に赤い鳥居が建っています。赤い鳥居といえば稲荷神社で、その祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)といい、保食神と同じ性格を持っています。入口に弥陀三尊があり、境内には二つの夜塔、蔵福坊と刻まれた庚申塔、天照皇大神の石碑などがあり、ほかに竹森社、松森社、稲荷社などがあります。隣には、蓮池藩祖鍋島直澄が建てたといわれる臨済宗妙心寺派寺院だった長江寺跡があります。
≪補足説明~「巨勢の歴史散歩」(平成元年発行)より引用≫
蔵福坊田原磐門などが、熊野権現の由緒記として提出したものによれば、田原磐門の祖先、田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦のとき、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人になった。そこで龍造寺にくだり、佐賀の東西に領地を受けて住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正七年には、熊野権現社を勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷をつづけていたという。蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は東分下の修理田神社となり、境内には、巨樟、老松があり、いかにも往時を物語っている。またこのあたりを千本山というが、田原家調練所跡と伝えられている。現在保食神社前に建っている鳥居は、明治の始めまで蔵福坊397番地にたっていたものといわれ、「肥前州逆郡佐嘉郡東西村高平山 蔵福坊良政 貞亮4年」と刻まれている。この一大勢力をもっていた蔵福坊も時代の流れには抗することができず、いつしか彦山権現に移ったと言われてる。保食社前には嘉永丑年、慶応2年と記された二つの夜燈や寛文、井原、牟田、蔵福坊と刻まれた庚申塔と文化3年と記された天照皇大神の石像がある。裏には竹森社、松森社、稲荷社等がある。しかし詳しいことは不明である。
≪保食神社の動画≫
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≪巨勢町の歴史探訪コース≫
*巨勢町西部の史跡等を回るコースです。
・しっかりコース(距離4.5㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒②六地蔵 ⇒③元忠寺跡と山王社跡⇒④二木大明神(循誘校区)⇒⑤構口番所跡(循誘校区) ⇒⑥巨勢神社⇒㉗巨勢公民館
・こじんまりコース(距離2.8㎞)
㉗巨勢公民館⇒①堂屋敷跡⇒⑦高尾藤棚跡⇒⑧竈王院⇒⑨高尾お倉跡 ⇒⑩真崎照郷記念碑⇒⑥巨勢神社⇒⑪肥筑軌道高尾駅跡 ⇒⑫小児天満宮⇒㉗巨勢公民館
*巨勢町東部の史跡等を回るコースです。
・たっぷりコース(距離6.0㎞)
㉗巨勢公民館⇒㉑安福寺⇒㉒応永寺跡⇒㉓売茶翁記念碑⇒㉔小田資光の墓⇒㉕八幡宮⇒㉖保食神社⇒⑲地蔵⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑮大神宮⇒⑭戸次塚⇒㉗巨勢公民館
・じっくりコース(距離4.3㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒⑰機械灌漑記念碑⇒⑱二十三夜尊⇒⑲地蔵⇒⑳修理田神社(熊野権現社)⇒㉗巨勢公民館
・さしあたりコース(距離2.6㎞)
㉗巨勢公民館⇒⑬法専寺⇒⑭戸次塚⇒⑮大神宮⇒⑯柳原観音⇒㉗巨勢公民館
≪次の探訪先~コースに沿って≫
*⑲地蔵(たっぷりコース) →地蔵のページ
≪参考≫