~江藤新平、日本の礎を築く~
10月10日(木)、佐賀県立佐賀城本丸歴史館 学芸担当係長の藤井祐介さんをお迎えして、開成さが学講座を開催し、江藤新平について学びました。
江藤新平は初代司法卿として国民の権利を守るための近代的な裁判制度を導入した他、三権分立に基づく国家制度の設計や、民法・国法といった法典の編纂、国民皆教育の導入など、現在にまでつながる日本の礎を築きました。
その後、佐賀戦争で非業の最期を遂げますが、大正5年に名誉回復がなされました。
「人民のために」という信念を貫き、国家づくりに尽力したその功績を語り継いでいきたい、そんな思いが残る講座となりました。
講師の藤井さん
会場の様子
次に印象に残った言葉をご紹介します。
天保5(1834)年2月9日、佐賀郡八戸村に誕生
裕福とはいえない家庭環境だったが、「空腹だからこそ、知恵が生まれる。」と、勉学に打ち込み、優秀な成績を修めていた。 中野方蔵が副島種臣に、「(江藤新平は)かなり優秀なところがある。」と告げたことにより、副島が実際に江藤にあって話をしたときの人物評価といわれている。
「いつか役に立つ人物である。殺してはならぬ。」
当時死罪に値する脱藩をしながら、数年後帰郷した際に提出した「京都見聞」を藩主鍋島直正が見て言ったとされる言葉。結果、無期限の自宅謹慎である永蟄居を命じられ、その後赦免されている。
「父はなくなったが、国家のために全力を注いだその熱い思いは、遺された文書の中に残っている。これを編纂してのちの世に伝え、父の志を明らかにすることが、われら子どもの責任である。」
佐賀戦争で非業の死を遂げた江藤。その長男熊太郎(当時14歳)が、弟の松太郎に言ったとされる言葉。
その後、明治22年(1889)年2月、大赦により江藤の内乱罪は消滅する。
大正5年(1916)年4月、正四位が追贈されている。