葉隠聞書を学ぶ

循誘公民館

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じゅんゆう歴史クラブ公開講座「葉隠聞書」

追腹(おいばら)禁止令発布

令和6年(2024年)6月19日(水)、じゅんゆう歴史クラブの公開講座では、講師の森 周蔵さんから「葉隠聞書(はがくれききがき)」シリーズを学びました。

そもそも「追腹」って何!?

いわゆる「殉死」ですね。

自分が仕える主君が亡くなったときに、自分の意思で切腹してそのあとを追う行為を「追腹」というそうです。

サラッと言うけれど「切腹」です。自分で自分のお腹に刀を突き立て死ぬ行為です。

現代では、ちょっと考えられないことですね。

肥前鍋島は国内トップクラスの追腹量産藩?

寛文元年(1661年)7月7日、鍋島初代藩主 鍋島勝茂の八男 鍋島直弘が逝去しました。

この鍋島直弘は、北茂安白石(しらいし)鍋島家の家祖であった人です。

北茂安地域では、直弘さんの後を追って追腹しようと言い出す人が36人も現れたとされています。

白石鍋島家に限らず、肥前鍋島では、藩祖直茂死去の際に12人、直茂の後室であった陽泰院死去の際に8人、藩祖勝茂の嫡男鍋島忠直の死去の際に5人、勝茂の娘 於市の死去の際に6人、深堀鍋島家の家祖である鍋島茂賢の死去の際に22人、小城藩初代藩主 鍋島元茂の死去の際に10人、初代鍋島藩主 鍋島勝茂の死去の際に26人などなど、国内のどの藩よりも桁違いに多い「追腹」が行われたそうです。

北茂安での追腹機運を受け、鍋島二代藩主の鍋島光茂は、寛文2年(1662年)「追腹御法度令」を出しました。

その内容は「主人の恩に報いるために追腹をするには神妙の至りであるが、主人の恩に報いる心があれば、幼い翁助(直尭・なおたか)に付き添い奉公すべきである。」と追腹をする忠義心を認めながらも、

「もし、法度に背いて追腹すれば家臣の家ばかりではなく、主人の山城(直弘)の跡目相続を認めない」という厳しい内容であったそうです。

佐賀新聞連載小説「高柳父子」を通して追腹を考える

佐賀新聞では滝口康彦著「高柳父子」が連載されていて、「追腹」について考えることが多かった時期。

タイムリーにその当時の様子を学ぶことができ、とても興味深い回でありました。

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