循誘校区の歴史と文化遺産(大財編)

豊福英二

豊福英二

大財地区は循誘校区の北部に位置し、大財通りや佐賀線跡通りを中心に商業地と住宅地で構成される地域であります。
そもそも、当地域は古の時代からの農村地帯であり、有明海から運んだ良質の土砂が沖積して平野を潤し、稲作文化が発展しました。
奈良時代には条・里で区分された条里制が施行され、現在でもその名残を見ることができます。公地公民の制度は私有地が認められる荘園制度へと移り、校区内でも牛島の荘の荘園が発生しました。
鎌倉時代に入ると
武士化が進み、大財五郎宗光なる名主が登場、室町時代には龍造寺氏が千葉氏より大宝40町の安堵状を受けており、龍造寺氏の領有化が進みました。
江戸時代以降は鍋島本藩が引継ぐに至り、領民は郡方の支配する体制に組み入れられました。

 

阿遮山清心院
心院は真言宗の寺院で本尊は不動明王です。この不動明王立像は鎌倉時代末期の製作と推定され、佐賀市の重要文化財となっています。少弐氏が大宰府より佐嘉に逃れたときに持参したもの、あるいは龍造寺胤家が筑前から佐嘉に戻った時に清心院に移したもの等と伝えられています。像高68㎝・寄木造りの彩色像であります。
龍造寺胤家は龍造寺氏中興の康家の嫡男でありましたが、大内氏等近隣の諸大名に対する対外政策で対立し、これが原因で出奔しました。(家督は弟・家和が継いだ)
明応7年(1498)、胤家は千葉胤繁を援軍し大内軍と戦うも敗退し、筑前太宰府の小鳥居信元に頼りました。永正元年(1504)に佐嘉に戻ると大財端城に入り、2年後に清心院を建立しました。
その後「西の館」に移って、この地は子である斎亮に譲りました。斎亮は深く仏を信じ英彦山権現で修行を積んで僧となり、清心院と称することになりました。そして、この居館を寺としたので法号をそのまま院号としました。
慶長年間(1596~1614)に佐賀城を築城した鍋島藩は清心院を東北部の鬼門にあたる寺として鎮護の道場とし、一方で北西部にある天祐寺とともに佐賀城の出城的役割を果たしていました。佐賀城廻之絵図(元文5年-1740)には境内の北東部に櫓台を見ることができ、戦略上重要な位置にありました。現在も清心院の周囲には堀が残っていて、当時の面影を偲ぶことができます。また境内の入口には寛政2年(1790)奉祀の竿状の六地蔵菩薩像が衆生を見守っています。
(写真上:清心院、写真下左:不動明王立像石碑、写真下右:六地蔵菩薩像)

 



    

 

 

大財聖堂
佐賀藩は2代藩主鍋島光茂が元禄4年(1691)に二の丸聖堂を創立して藩士の教育にあたりました。その後、3代藩主鍋島綱茂が元禄10年に聖堂を鬼丸に移転して、名称も鬼丸聖堂と変更しました。
一方、御用商人であり儒学者であった武富廉斎は寛永14年(1637)に白山町に生まれました。元禄7年(1694)に私財を投入し民間向けに大財聖堂を創設し、近くに私塾依仁亭と講堂の鴛魚斎を開いて藩士や町民に儒学を教えました。正徳3年(1713)には自然石の大宝聖林碑を建立しています。
また、佐賀で流行った筑紫筝や公家に琵琶を学ぶ等文化も嗜み、享保3年(1718)に82歳で亡くなりました。その後、武富家の子孫が藩の援助を受けながら存続させますが、天明年間(1781~1788)には廃校状態にあったようです。
大財聖堂跡の北側に廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」があり、武富廉斎を始めとする一族の墓は称念寺にあります。
(写真左:大財聖堂址、写真右:れんさい橋)

 

 

 

大財地蔵
大財3丁目信号(大財通り)を西に向かい、左折する2つ目の路地を南に入ったところに、明和5年(1768)を刻む地蔵菩薩坐像があります。大財地区ではよく願い事が叶うお地蔵さんとして有名です。
台座には「三界萬霊」と刻されており、「三界」は欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神だけの世界)の三つ の世界を表しています。発生から死滅まで繰り返している世界において、「萬霊」とはこの世の有情無情の生き物全ての精霊等の世界を指しており、それらを供養するために三界萬霊塔があります。(写真:大財の地蔵さん)

 

 

宝専山仏心寺
仏心寺は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の子息長行が開基となり、元禄5年(1692)に創建された黄檗宗の寺院で開山は禅厳和尚です。本尊は聖観世音菩薩であります。
禅厳は領内の無縁仏の供養をなし、喜捨袋を回すことの了解を得ていました。
享保17年(1732)の蝗群の大発生により、3万人という多数の死亡者を出す大飢饉となりました。翌18年には5代藩主鍋島宗茂が餓死者供養のため「施餓鬼会」を実施しています。宝暦8年(1758)には6代藩主鍋島宗教が3万人の餓死者のために供養の石塔を建てました。石碑には「本州庶民餓死累葬墓」と刻されています。
山門の左側には元禄4年(1691)の刻銘がある地蔵菩薩立像があります。同じく右側にも地蔵菩薩立像があります。
(写真上:仏心寺、写真下左:本州庶民餓死累葬之墓の石碑、写真下右:地蔵菩薩立像)

     

 

     

 

 

 

大宝山精金禅寺
精金禅寺は寺社差出(天明9年-1789 )の「済家宗由緒」水上山一派によると佐賀郡大宝村、御免許敷地弐段六畝拾九歩、山号無シ、精金庵、当寺開山芳隣和尚、事蹟不詳、中興天如和尚とあります。
臨済宗南禅寺派の禅宗寺院であり、初代藩主鍋島勝茂等・佐嘉藩初期において鍋島家との深い繋がりを持つ寺院でありました。
山門は歴史を感じさせる古い四脚門であり、その前方左側に享保17年(1732)刻銘の竿式六地蔵菩薩があり、また前方右側に地蔵菩薩座像があります。また境内には正徳元年(1711)刻銘の聖観音菩薩像、正徳5年(1715)の如意輪観世音菩薩像の他、地蔵菩薩立像等があります。
なお、精金禅寺は同じく大宝村にあった定光寺(下記)を統合し、定光寺は廃寺になったと伝えられ、この頃より大宝山の山号を使用したものと思われます。(写真上:六地蔵菩薩像、写真下左:精金禅寺、写真下右:聖観音菩薩像・如意輪観世音菩薩像・地蔵菩薩立像)

 

 

 

 

 

 

 

大宝山定光寺(参考)
同じく「済家宗由緒」によると、佐賀郡大宝村之内、御免許敷地壱段四畝壱歩、大宝山定光寺とあります。当寺由緒ハ、永歴元年(1160)庚辰正月三日、渋谷金応丸定光、主君義朝落命之砌、討死と称し此所ニ忍ひ下り、伝教大使一刀三礼之薬師尊像を携来、当寺開山全山大和尚ニ語り三七日祈る、此地ニ瑞現ある故御堂を建立して安置ス、͡応保弐年(1162)壬午八月也。                以 上

【豊 福 英 二 記】

ーつながるさがし・循誘公民館ー