新馬場通り
佐賀藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元年(1772)に創建されました。鳥居に通じる新馬場通りは、文化14年(1817)に参道として新馬場が開かれ、昭和時代の中頃まで大変賑わっていました。
この通りには嘉永6年(1853)創業で漆喰壁と表玄関に威風がある旅館松川屋を始め、明治期中頃以降に建設された井徳屋等の旅館が連ね、また大正期建築の西洋館風の松尾写真館が存在しており、歴史的建築群としての町並みを形成しています。
(写真下:松川屋から松原神社を望む)
欄干茶屋
元文5年(1740)の佐賀城廻之図を見ると、松原神社鳥居の東側周辺に広大な敷地の欄干茶屋があり、神野茶屋や水ヶ江茶屋と同じように藩主の休憩所として、また幕府の使者と面談する迎賓館的役割を果たすために使用されていました。
鍋島藩4代藩主吉茂がこの茶屋を新築し、享保8年(1723)に始めて入られました。8代藩主治茂の時に解体されましたが、その後10代藩主直正が再興しました。欄干茶屋跡には何も見るものがありませんが、近くに欄干橋があり、その名残を残しています。
(写真下は欄干茶屋跡)
勢 屯
勢屯は「せいだまり」「せいだまる」「せいとん」」等と読みます。勢屯とは城郭の中や城下町の出入口である構口や辻などに設けられた広場・たまり場を言います。戦国時代は人馬や武器を揃えて陣容を整える場所であり、参勤交代の時は行列を整えたりする場所として使用されました。
元文5年(1740)佐賀城廻之図を見ると勢屯があり、現在の深川製磁(佐賀市松原)前の広場一帯に位置していたことが分かります。
また勢屯から東に向かい、かつ裏十軒川の南側に馬責馬場がありました。馬場とは乗馬を行うための土地をいいます。近世城下町ではこの馬場があり、城下に在住する武士が乗馬調練などを行うために使用されていました。なお、「土手際小路」ともいわれ、通りの北側にある裏十軒川沿いに土手がありました。
なお、馬責馬場の名称は今現在も使用されています。
(写真下:勢屯跡)
楊柳亭
佐賀市松原には佐賀社交界の「ステータスシンボル」として、また格式高い老舗料亭として名高い楊柳亭があります。
建物に重厚な趣きがあり、凛とした雰囲気がある楊柳亭は、明治15年(1882)5月、岸川平左衛門が創業しました。岸川家は代々医者の名家でありましたが、初代が料理屋「川崎屋」から嫁をもらい、屋号を「新川崎屋」としてスタートしました。
初代佐賀県知事鎌田景弼は県政発展に尽くす一方で、政務は多忙を極めました。鎌田は無類の左党(酒豪)で、鋭気を養うためにこの料亭をよく利用しました。同知事はしだれ柳の多かったこの地に因んで「楊柳亭」と名づけました。楊柳亭ではこの知事の肖像写真や、酔石景弼の銘入り花瓶が大切に保存されています。
また、大広間や部屋に飾られた横額には、明治の元勲副島種臣・中林梧竹・武富時敏等の郷土の書家や、三条実美・犬養毅といった政治家直筆の書があります。当料亭を訪れた時にしたためたものであり、当料亭の長い歴史を物語っています。
昭和24年5月には戦後の全国を行幸なされた昭和天皇が佐賀の地にお立ちよりの際、楊柳亭に宿泊されました。
楊柳亭の庭には別名キリシタン灯籠といわれる織部灯籠があります。また、佐賀で明治時代から歌われている有名な座敷唄「梅干し」の記念碑があり、毎年2月の梅の咲く頃に同好者が相寄り、「梅干し」の唄会が開催されています。
この記念碑は、昭和38年城内公園に建てられたものを、昭和47年に佐賀新聞中尾都昭社長の肝いりで楊柳亭に移設されました。これを機に、長崎の花月で端唄「春雨」を作詞した柴田花守を偲んで長崎検番の舞が披露されていた春雨まつり(小城市)を参考に、梅ぼしまつりが始まりました。歌碑には、「しわはよれどもあの梅干しは色気はなれぬ粋なやつ」と書かれいます。
この歌は光明寺(呉服元町)12代住職龍ケ江良俊の作詞といわれています。(一方で山口練一作詞説もある)
最近、江戸幕末期の幕府勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)が嘉永6年(1853)に佐賀を訪問、反射炉を見学した際にもてなしたという料理が佐賀藩の書物に残されており、楊柳亭がこれを再現したことでも話題になりました。(写真下:楊柳亭)
以 上
ー 豊 福 英 二 記 ー
ーつながるさがし・循誘公民館ー
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