長崎街道は旧呉服町の一角に銀判屋を営む中元寺新左衛門の屋敷があった呉服元町から情緒ある佇まいを見せる旧蓮池町に入り、如蘭塾佐賀分室がある野中忠太居住跡(妻は野中元右衛門の孫)を通っていくと、柳町へ辿り着きます。
旧馬場家住宅
江戸時代の終わりから明治時代の初め頃、馬場家の先祖ににあたる鍋島藩藩医を務めた高宗弘堂が住み漢方医を開業したと伝えられています。
嘉永7年(1854)の佐賀城下竈帳には、岡部杢之助の組頭古賀元恭が居住していたとあります。18世紀末~19世紀初めの建築と推定され、町屋建築ながら腕木門も含め武家屋敷風の間取りを採っています。佐賀県遺産に認定されています。
旧中村家住宅
八坂神社の東隣にある中村家は明治18年(1885)に建てられ、旧古賀銀行が開業したときには社屋として使用されていたと言われています。
明治39年に古賀銀行が現在の位置に移転した後は、中村家の住宅として使用されていました。一部に改築の跡がありますが、明治時代から残る建築物として重要です。
佐賀市歴史民俗館
佐賀市歴史民俗館とは、旧古賀銀行・旧古賀家・旧牛島家・旧三省銀行・旧福田家(以上佐賀市重要文化財)に最近旧森永家・旧久冨家(以上佐賀県遺産)が加わり、この七館にて構成されたものを言います。
これらの貴重な歴史的価値あふれる建物を後世に伝え、佐賀市の財産として役立てようと整備し公開されているもので、長崎街道柳町一帯の情報発信の中心的役割を担っています。
また、毎年2月中旬から3月までの期間中に行われる「佐賀城下ひな祭り」の主な会場としても賑わっています。
旧古賀銀行
古賀銀行は明治18年(1885)に両替商をしていた古賀善平が蓮池町1番地に設立し、明治39年(1906)には現在地に本店を移転新築しました。大正期には九州五大銀行の一つとして数えられていました。
しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)に解散を決議するに至りました。
古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わりましたが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定されています。
現在の建物は大正5年(1916)当時の姿に復原されたもので、レンガ風タイル張りのモダンな洋館風の造りとなっており、館内では大正建築のロマンを楽しむことが出来ます。
旧古賀銀行外観 旧古賀銀行館内
旧古賀家
古賀銀行を設立した古賀善平の住宅で、明治17年(1884)に建築された上流階級の邸宅です。その後も善兵衛・二代目善兵衛が居住しましたが銀行の解散後は古賀氏の手を離れ、昭和29年(1954)からは料亭千鳥として使われていました。
町家ながら武家屋敷に似た造りとなっており、15もの和室からなっています。主な資材も建築当時のもので、昔ながらの欄間細工、襖絵や板戸を見ることが出来ます。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成となっています。
古賀善橋 旧古賀家
旧三省銀行
明治15年(1882)に柿久栄次を頭取として三省社を設立、米相場取引の業務を取り行い、明治18年には正式の銀行として認められました。
当初は順調な経営で推移しましたが投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)には廃業に至りました。
建築物の外部は上方に向かってふくらみを持つむくり、及び切妻造りの屋根となっており、また大胆な形の銅板の窓が特長的な白壁の蔵造りとなっています。建物内は畳敷きで、茶の間が吹き抜けとなっています。明治時代前期から残存する独創的な建築物として貴重であります。
旧牛島家
牛島家は佐賀市朝日町(旧今宿町)の佐賀江川に面した北側を正面として現存していました。平成5年の道路拡幅工事に伴い、佐賀市柳町の現在地に移築・復原したものです。
牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)の「下今宿町竃帳」を見ると、下今宿町の姥役を務める一方で問屋を営む高楊伊助の屋敷として記述されています。また明治23年(1890)作の銅板画「佐賀県独案内」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高楊伊代助の店として描かれています。
建築は18世紀中頃で、江戸時代の中期頃の建物と推定されており、佐賀城下に残る町家建築の構成を知る貴重な資料となっており、また明治時代の町家建築の構成を知る資料としても重要なものとなっています。
旧福田家
福田家は長崎街道の八坂神社より南に少し逸れた通小路にあります。明治初期に福田又蔵が土蔵を新築した後、明治末から大正そして昭和初期にかけて佐賀を代表する実業家として活躍した息子の福田慶四郎が大正7年(1918)に主屋を建てました。
北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和式の応接間やステンドグラス窓の洋風応接間、及び数奇屋造りの茶室等、大正時代の近代和風建築が良好な状態で残っています。
旧森永家
森永家は江戸時代の寛政年間に初代森永十助が煙草の製造を始めたと伝えられています。明治時代初めから森永作平によって煙草の製造販売を行っていました。特に「富士乃煙」は佐賀の煙草として名を届けさせ、有名になりました。
明治37年に煙草専売法が施行されましたが、それまで煙草業を営んでいました。
それ以降は呉服店として商いを始め、昭和9年に至るまで営業をしていました。
旧久冨家
久冨家は履物の商いを行っており、大正10年に久冨亀一が白山町より柳町に移転、建築したものです。履物商を営んでいた初代久富亀一が「履物問屋久富商店」として当地で商いを行いました。
建物裏に作業所を設け、下駄の製造も行われました。後に、大分県日田市にも下駄の製造所を設け、朝鮮半島へ販路を広げるなど事業を拡大し、県下でも有数の履物問屋でした。
専福寺と島本良順
宝永山専福寺は柳町にあり、正保2年(1645)創建の浄土真宗の寺院で、開基は祐学と伝えられています。当寺には寺独自の家伝薬なるものがあったと伝えられています。
この寺に佐賀藩蘭学の始祖と言われる島本良順の墓があります。佐賀医学の先駆者として大いに顕彰されて然るべき人物でありますが、功績の割には訪れる人も少なく、墓も小さく、静かに眠っています。
島本良順は佐賀城下蓮池町の漢方医島本良橘の子として生まれ、寛政年間(1789~1801)に長崎に出て蘭学を学び、帰国後に蓮池町で蘭方医を開業し、一方で蘭学の講義を始める等、佐賀における「蘭学の祖」といわれました。
しかし、保守的な考えが根強く残る地元において、この新しい療法は受け入れられることもなく、苦しい生活が続きました。緒方洪庵とは親交があり、学識も次第に認められるようになり、良順の門下より伊東玄朴・金武良哲・大庭雪斎等の人材が出ました。
天保5年(1834)に佐賀藩医学寮が八幡小路に設けられると、良順は寮監として迎えられ、初めて蘭学も加えられました。良順は人徳・学識ともに認められて、蓮池藩鍋島直興の侍医にも抜擢されるになりました。晩年は寂しい生活を送つたといわれ、嘉永元年(1848)に亡くなりました。
専福寺 島本良順の墓
八坂神社
旧古賀銀行の前に大きく茂る樹齢600年の楠木が目に付きます。古賀善平寄進の鳥居を潜ると八坂神社の社殿があり、祭神は素戔嗚尊を祀っています。
明治時代以前は祇園社と呼ばれ、元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神でありました。牛頭天王は起源不詳の習合神であり、わが国では素戔嗚尊と同じ神とされていました。
平安時代、京に都が遷ると、毎年のごとく夏になると疫病が流行りました。この当時これは御霊のたたりと考えられ、その退散を祈願して御霊祓が行なわれました。それには疫病の神である牛頭天王を祀る祇園社が鎮護してくれるだろうということで、「祇園御霊会」が行われるようになりました。これが祇園祭の始まりです。
江戸時代の初め、鍋島勝茂は佐賀城の鬼門除けとして国家泰平を祈願し、真言宗・成就院の朝厳上人に京都よりこの地に祇園社を勧請させました。敷地は3畝あり、御免地でした。福萬寺年譜には「元和8年(1622)に牛島大明神と成就院があり」とあり、この当時ここには牛之島天満宮、成就院がありました。
現在も八坂神社南の裏十間川に成就院橋がありますが〈承応3年(1654)の絵図にあり)、この橋の西北に成就院がありました。明治維新前には成就院という盲僧屋敷があって修行の場として存在していましたが、その後衰退しました。神社敷地の南西に小さなお堂「成就院」があり、その名残を見ることができます。また、宝暦4年(1754)奉祀の恵比須像や安政2年(1855)奉祀の二十三夜塔等の貴重な石仏群があります。
八坂神社 成就院
以 上(豊福 英二 記)
ー続 くー
ーつながるさがし・循誘公民館ー